2012.12.21 Friday 09:28

去年の紫 7

言霊は諸刃の剣寒昴        澤井益市郎

 言霊には、さまざまな働きがある。日常の次元から非日常の世界へと昇華すれば、その働きの質量は一段と高まる。言葉そのものが、諸刃の剣であることは、歳を重ねていくうちに種々の体験から実感しているであろう。況してや、俳句の言葉であるならば尚更である。象徴性が求められる俳句では、その剣の鋭利さが問われる。



冬帽子目深に冬帽子売る      長島千恵子

 同じ言葉の重ねが気になる場合と、そうではない場合の違いには雲泥の差がある。掲句の場合は、成功している少ない部類に入る。一句全体の歯切れの良さも、さることながら、帽子を売っている人間の描写まできっちりと表現されている。ドキュメンタリーの映像のようだ。



あだし野の凩が来て戸を敲く    赤塚はる江 

 「あだし野」の代わりに「武蔵野」を置いたとしても、それほどのインパクトはない。このように、言葉の斡旋は時事云々という問題ではなく、言葉の相互作用に拠るのであるから、事実を超えた詩的真実の言葉でありたい。


山十生
(紫2012年3月号/行雲流水より)


さざんか

2012.12.19 Wednesday 12:25

去年の紫 6

マグカップなら赤がいい雪女 根上かえる(紫 2012年3月号より)

人を惑わせ凍らせてしまうといわれる雪女。その雪女が、マグカップを持っているというのがユニークだ。きっとこの雪女は、今あたたかい部屋の中にいるはずだ。
しかも、カップの色は赤がいいという。自分の白い肌に一番映える色だからではないだろうか。
カップに満たされているのは、コーヒーか、ココアか、それともコーンスープか。
いずれにせよ、飲んだ瞬間女の体がしゅわしゅわと溶けていってしまいそうな、はかない予感もする。

豊永裕美(紫)


雪だるま






2012.11.30 Friday 12:21

去年の紫 5


野良猫となりし由来を聞く冬日 柳田泰子(紫 2012年3月号より)

突然ではあるが、わたしはすべての動物の中で一番だといえるほど、猫が好きだ。道で野良猫を見つければその場に立ち止まり、声をかけずにはいられない。
ほとんどの野良は警戒し、あわてて逃げていってしまうが、ときにものすごく人懐こい猫に出会えるときがある。こちらにすり寄り、甘えた鳴き声を上げてくる。そのあまりにも人に慣れた様子から、もしかしたら昔は人間に飼われていたのかもしれないと思う。
掲句の猫は、きっとそんな猫だろう。
冬の日ざしはまぶしいが、空気はやはり冷たい。そんなときに、猫の高めの体温や毛皮の柔らかさを感じつつゆったりと過ごせたら、とても満ち足りた気持ちになるだろう。
この野良猫はこのあと、寄り添っていた人間の家に、一緒に帰るのかもしれない。

豊永裕美(紫)


野良猫







2012.11.28 Wednesday 10:30

去年の紫 4

備へ置く終の衣装を虫干す      鈴木登代子
さよならの五分前です冬夕焼け    鳥海美智子

<五分前>は、前句を承けて連鎖反応的に死出の旅路に発つ五分前と思ってしまう。しかし、この作品の場面設定は、色々な角度で捉えることが出来る。<さよなら>は、単なる別れもあろうし、恋人同士の、その日の別れもあろう。前述の肉親や知己の亡くなる五分前とも思える。さらに気球が滅亡する五分前なのかもしれない。

霜柱踏んで泉下を覗きけり   池田惠

<泉下(せんか)>は、黄泉の国で、この世ではなくあの世のことである。霜柱を踏んだからと言って<泉下>が見える訳ではない。そういう日常的な世界だけに拘っていたのでは、詩としての俳句の次元を深めることは困難である。非日常の世界を顕現させることも大切である。

冬青草スローライフはいい響き    小田島洋子

スローライフは、現代人の性急な生き方と真っ向対立している。また、<スローライフはいい響き>という措辞は、読んで字のごとく良い響きである。その響きは、スローライフを称揚しているかのようにも思える。季語の選択も十全で申し分のない一句となった。


山�十生
(紫2012年2月号/行雲流水より)



カモ




2012.11.02 Friday 12:07

去年の紫 3

ステンレスの像ぬめぬめ秋日和   渡辺まさる (「紫」2011年12月号より)


ステンレスは、金属の一種。
鉄にクロムやニッケルを含ませ、さびにくいことが特徴だという。
無機質なイメージのあるステンレスという言葉に対し、
ぬめぬめという言葉からは、なめくじやきのこ、それに唇などといった
有機質で、少し不気味にも感じられるものを連想させられる。
よく晴れて静かな、誰もいない秋の公園。
そこに佇むステンレスの像が、ふと生命を得てぬらりと動き出す。
そのような少し不思議なシーンが見えてくる。

豊永裕美(紫)

グラス越し








2012.10.31 Wednesday 20:18

去年の紫 2

 光速を超えしさびしさ月夜茸   若林波留美(紫 2012年1月号より)

 昨今ノーベル賞で話題になったiPS細胞を持ち出すまでもなく、科学技術の進歩には眼を見張る。昨年(2011年)9月、ニュートリノが光より早いという実験結果が報告された。もしも本当ならば「タイムマシンさえも可能」と、驚きを持って迎えられた。一昔前のSFの世界に、今の我々は片足を突っ込んで暮らしている。(注・今年6月研究チームは再実験の結果「超高速」を撤回)
 科学の進歩は素晴らしい。治療不可能だった病が癒え、暮らしはより便利で快適なものとなる。それは決して悪いことではない。だが、と作者はふと立ち止まる。この淋しさは何なのだろう?便利さや快適さを手に入れた分、何かをそっと手放してきたのだ。それはたとえば、夜は暗いということ、会わねば話が出来ぬということ、美しい景色は胸に刻み込まねば消えてしまうということ―それらはほんの取るに足らないことかもしれないのだが…。
  「光速を超えしさびしさ」というフレーズからは宇宙的な孤独感・孤立感をも呼び起こされ、寂しさが極まる。取り合わせた「月夜茸」という季語は、とてつもなく静かだ。見る人の誰もいない森の奥深く、ひっそりと光を放つ月夜茸。人類のたゆまぬ「向上心」はこれからも止むことなく、未知の領域を切り開いていくだろう。そして同じように月夜茸は光り続ける。
 ここまで書いてふと気づいた。質量のあるものは光速を超えられないという。だが、不意に押し寄せる淋しさは、光速をも超えてしまうのかもしれない。
 多くを語らぬ掲句の奥行きの深さに胸を打たれる。深く共感の一句。

 渡辺智恵(紫)

 
スカイツリー






2012.10.26 Friday 10:08

去年の紫 1



死は大いなるわたくしごと天高し   六車淳子

俳句を書く場合、ディテールを執拗に描くものと、大まかに描く場合の両極がある。どちらが良く、どちらが悪いということはない。要は、どちらにしても作者の狙いが、きっちりと描ければ良い訳である。死を<大いなるわたくしごと>と感取した作者には脱帽する。俳句でしか言い得ない世界を見事なまでに顕在させている。

御堂まで道案内のこぼれ萩    桝村節子

道の案内は、人間が人間を案内するのが一般的である。それが、ここでは御堂までの案内役が<こぼれ萩>だという。このようなものの捉え方は詩人の眼である。こうすることによって詩の領域が広がって来る。常識の世界には限界がある。詩的想像力の世界には限界がない。


山噂柔
(紫2012年1月号/行雲流水より)

夕暮れ










2012.10.25 Thursday 09:27

「去年の紫」のココロ

一般的・伝統的に「有季(季語を含む)・定型(五・七・五の韻律)」は俳句の基本と言われています。句会では「当季(とうき)」といって、句を詠むその時の季節が大切な要素となります。晩秋の今ならせいぜい仲秋〜初冬の句を詠むのが普通で、まず間違っても春や真夏の句を詠んだりはしません。(どんな場合にも例外はありますが)
ところが「今月の紫」をご覧いただくとわかるように、10月の今、どの俳句雑誌や結社誌を見ても大半は初夏から盛夏の句が満載です。これは雑誌の編集や印刷の都合によるものですが、このタイムラグは季節を大切にしている俳句にとっては相当なジレンマです。

そこで一年遅れとはなりますが、今の季節にあった句と鑑賞を「去年の紫」として折々に紹介してゆきたいと思います。



くれよん






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