光速を超えしさびしさ月夜茸 若林波留美(紫 2012年1月号より)
昨今ノーベル賞で話題になったiPS細胞を持ち出すまでもなく、科学技術の進歩には眼を見張る。昨年(2011年)9月、ニュートリノが光より早いという実験結果が報告された。もしも本当ならば「タイムマシンさえも可能」と、驚きを持って迎えられた。一昔前のSFの世界に、今の我々は片足を突っ込んで暮らしている。(注・今年6月研究チームは再実験の結果「超高速」を撤回)
科学の進歩は素晴らしい。治療不可能だった病が癒え、暮らしはより便利で快適なものとなる。それは決して悪いことではない。だが、と作者はふと立ち止まる。この淋しさは何なのだろう?便利さや快適さを手に入れた分、何かをそっと手放してきたのだ。それはたとえば、夜は暗いということ、会わねば話が出来ぬということ、美しい景色は胸に刻み込まねば消えてしまうということ―それらはほんの取るに足らないことかもしれないのだが…。
「光速を超えしさびしさ」というフレーズからは宇宙的な孤独感・孤立感をも呼び起こされ、寂しさが極まる。取り合わせた「月夜茸」という季語は、とてつもなく静かだ。見る人の誰もいない森の奥深く、ひっそりと光を放つ月夜茸。人類のたゆまぬ「向上心」はこれからも止むことなく、未知の領域を切り開いていくだろう。そして同じように月夜茸は光り続ける。
ここまで書いてふと気づいた。質量のあるものは光速を超えられないという。だが、不意に押し寄せる淋しさは、光速をも超えてしまうのかもしれない。
多くを語らぬ掲句の奥行きの深さに胸を打たれる。深く共感の一句。
渡辺智恵(紫)